性格がとてもいいです

性格がとてもいい人が書くとてもいい内容のブログです

いろいろありますよね

高校生の頃、行きつけの喫茶店があった。
学校の6限目が終わり、塾の授業が始まるまでの間
その喫茶店に溜まってカレーを食べるのを習慣にしていた。




古びた佇まいのその喫茶店では、常連のおじさんたちが、各々の特等席に座りコーヒーを啜っている。競馬新聞にマークをしたり、イヤホンでラジオを聴いたり、眠りこけたり、常連たちは思い思いに時間を過ごしていた。

ひとりだけ、そのおじさん連中の中では異質な”THE•学生が憧れる人妻”みたいな見た目をした美しい熟れ方をされているお姉様がいらっしゃって、私は視界の端で何度かチラチラと視線を送った。




そこであえてカレーを食べるのが乙な趣味だと思っていた。
「大人たちと同じ空気を吸える俺かっけー」と鼻高々だった。
学生はなんと300円でカレーが食べられる。しかも大盛り無料だった。割引シールが貼られているスーパーの惣菜コーナーの冷えたカツ丼よりも安い。安いのに温かくて美味い。高校を卒業してからしばらく経つが、あのカレー以上の”300円で得られる贅沢感”に出会えていない。


無愛想で無口なマスターと、反対にフレンドリーでたくさん話しかけてくれるおばさんで営まれている、夫婦経営の喫茶店だった。高校生の客が少ないからか、おばさんは仕切りに私に話しかけてきた。
「最近の高校生は何の映画見るの?『太陽を盗んだ男』みたことある?私あれ映画館で見てねえ…」と私の返答を待たずしてべらべらと早口で一方的に話してくれる厚かましさが好きだった。

私は内気で、あまり自分から人に話しかける性格ではなかったから、そういう強引さに憧れていた。
私が水を少しでも飲んだら継ぎ足してくれた。表面張力で水がステンドグラスの光を反射して揺れるのを眺めて頬は緩んだ。

厨房ではたまに夫婦喧嘩をしている声が響いた。常連のおじさんたちは慣れきっているのだろうか、誰も反応をしない。店のBGMと同じようにして聴いている。
「なんであんたはいつもそうやって!!!!!」
おばさんの高い声が厨房の暖簾を越えてこちらに届く。カレーを食べながら、全神経をそちらに傾けていた。
「いろいろあるだろうが。よかて、もうギャーギャー言うな」
「いろいろじゃないでしょ!!!!ちゃんと話さんね!!!!」
夫婦喧嘩の聞ける喫茶店は日本でここだけかもしれない。

あんなに思い入れはあったのに、大学受験合格を機に、喫茶店へと通うのは辞めた。「第一志望の大学に合格しましたよ!」とか「毎日ここで食べてたカレーのおかげです。私にとってのお守りです」とか、そういうラストメッセージを残し、おじさんとおばさんと写真を撮って残しておけば、少しは心温まる話になったかもしれないのに、「今この瞬間の出来事は、いつか大切な思い出になる」ということに私は気付くことができず、ただ時間の波に流されるように大人になった。

卒業して10年。帰省ついでに久しぶりにその喫茶店を訪れてみることにした。あの頃にはなかったGoogleマップの口コミには
「雰囲気は悪くないが、店主の愛想が悪い。二度といきません」「駐車場がなくて不便。ナポリタンの味はそこそこ」などと、雑多なものが書き込まれていた。「お前らごときにあの店の良さがわかってたまるか」と、顔の見えない”喫茶店評論家もどき”たちに唾を吐きながら店へと向かった。

店の前に立つと、メニューをただA4用紙に雑な字で書いただけのダサい張り紙と、”新型コロナ対策実施中!””感染防止徹底宣言”という国から支給されたステッカーとが混在していて、あの頃の淡い記憶に水を刺される。

扉をくぐると、ほんのりとカレーの香りが鼻腔をくすぐる。郷愁が鼻から胸に降り、ぐっと涙腺にまで駆け上がる。私は立派な大人になれているだろうか。あの頃眺めていたおじさんたちに年齢が近づいたけれど、彼らはどんな日々を過ごしていたのだろうか。

メニュー表はQRコード読み取り式に変わっていて、余計なことすんじゃねえよと思った。決済は現金だけだった。デジタル化進める順番が逆だろ。Suicaで払わせろ。

「お兄さんここら辺の人?」店のマスターが話しかけてくれた。高校生の頃は一度も話しかけてくれなかったのに!嬉しかった。大人の仲間入りした気分になった。あの頃よりは社会経験を踏んだので、当たり障りのない上部の会話も上手にできるようになった。

「今は東京に住んでて、高校がこの近くだったんですよ。塾行く前に週に3回くらいはここでカレー食べてました。まだ300円でやってるんですか?」

「そうだったとね!おっちゃんなーんも覚えとらん。今も学生さんは300円でやりよるよ。お兄さんはもう780円ばいね」
「歳とったこと痛感しますね」

奥から女性の店員が出てきた。あの頃のおばさんとは違う人で、美しい熟れ方をされたおばさまだった。思い出の海の底に沈んでいた記憶が急に水面に顔を出す。
(あの頃よくいたお姉様じゃないか?)

記憶は定かではない。しかし、多感な高校生の頃に痛烈に感じたあの”色気”というやつは、歳を重ねてからでも容易に思い出すことができる。


もう私が今後頻繁にこの店に通うことはない。アホなふりをできるようになったのも大人になった証拠だ。

「あの…ここマスターと、奥様でやってらっしゃいましたよね?たくさんお水ついでくれる奥様。よくお話ししてもらってたんですよ」


マスターは隣に並ぶ熟女に へへっ と一瞥して

「そら元嫁たい。別れて、今はこいつが奥さん。なんか恥ずかしかね」

「おー…そうなんですね…いろいろありますよね」

夫婦経営だと思っていたら奥様が変わっていた。

「いろいろありますよね」便利な言葉だ。